トップページ
TOP
超長距離通信
動物追跡用GPS
USB地震計
GID-SSS
研究所の紹介

t 玉置晴朗 / JA1QPY / Hal.T
 
1949 発生 大阪府西成区天下茶屋で生まれる
1955 小学  大阪府吹田市荒池町2296に引越し、すでにこの地名はないだろう。尾根の中腹にある吹田市立千里第一小学校へ入学。道を挟んで上の校舎が低学年、下の校舎が高学年、渡り廊下がある小学校で校庭も上と下にふたつあった。毎日遊び呆け、宿題をやらない忘れ物も多い生徒だったが理科と工作だけは好きだった。CQ出版「トランジスタの使い方」なる本についていた葉書を出したら2SB117がひとつもらえた。ゲルマラジオやUコンの模型飛行機、エンヤの09,35のエンジンを回していた。
 道で見かけたボーイスカウトに見とれ、吹田 第2団に入った。見かけたのは眼医者の息子である友達の兄貴だったらしい。摂津耶馬溪のキャンプや集団行動、1959年の「滋賀県あいば野」であった第2回日本ジャンボリーではお湯をかぶり大火傷、米軍の軍医に手当てを受け、喉に通りそうもない500円玉ぐらいの薬を飲まされた。火傷は私しかわからないぐらいわずかな痕跡しか残っていない。自由と独立精神を養った。
1961 中学  名古屋、大阪の池田市、東京と引越し、いろんな風土に接することができるし引越しも悪くない。Uコンの模型飛行機に凝りラジコン用無線機にあこがれ、自作を志して超再生受信機や真空管(3A5)送信機の自作から無線に関わる。
1964 高校  東京都立大山高等学校に受かり無線部(JA1YSCを創立)へ通う。校舎屋上に21MHz用の7素子八木、全長12mのどでかいアンテナを作り台風で校舎の2階と3階の窓ガラスを大破。校長は天災だってことで鷹揚に許してくれた。この八木アンテナ、当時では日本一の大きさであったと思う。ラジオゾンデ用のUHF発信器を秋葉原で手に入れて模型を作ってシミュレーションしてパラメータを決めた。DXではLU(アルゼンチン)、相手はスペイン語、こちらはカタコトの英語、間を取り持つW(米国)のハムなんてこともあった。Halという名はアマチュア無線で外国と話をするときに自己紹介する名前として、この頃に作った。
 自作無線機はトランスレス電源の12GB7,7MHz/21MHz,10W。1年以上かかって完成した。電子技術への志向はこの時代に確実になったようだ、友達は近所の高校の無線部の人間が多く、今でもJA1SEW(愛知教育大学、岩石学教授)とはつきあいがある。物理や数学が好きで、それだけは1学年600人中で一桁順位だったようだが全科目を通してみると10段階で4ぐらい、英語はケツから一桁、2/10なんて当たり前。いつも補修に呼び出されていたが、まさか英語を使う時代になるとは想像もできず、もちろん国立大学は絶望的だと宣告されていた。
1968 大学  JA1SEWのおかげで工学部志向から気が変わり、群馬大学教育学部にて先生を志すが、国際政治、大学問題に明け暮れる。自治会の副執行委員長を引き請け実質上の指導部として反日共とののしられながら5年間をすごす。自治会は学芸学部自治会と称していた。高校時代にめだたない無線坊やだったのが何という変身だったのだろう。結婚相手とはそのころに知りあう。おかげで今でも大学の先生は良く覚えてくれている。
1973 Oscar  大学を5年もかかって卒業したが先生になれるわけもなく、3月末のある朝、下宿に踏み込んできた友達の友達ら3人で弱電工事業(オスカープロジェクト)を始める。以後、大学の上下級生の失対事業となり4〜8名で仕事を続ける。今でも数人はこの名で仕事している。Oscarはアマチュア無線用人工衛星の名である
 電気工事といっても、特殊な分野で弱電という。ビルや旅館の火災報知器や学校放送の設備、珍しい所では苗場のそばで高圧線の保守作業などにも借り出されていた。まあ下請けだ。高圧線の工事は山頂と山頂の間をつなぐ長い高圧線をつないでいるジョイント部がちゃんとしているか、そこまで行って調べたり碍子の交換をする。早く言えば歩くウィンチとして下請け作業をしたりした。山歩きは楽しかったけれど荷物が重くてへとへと。
1982 NMH  障害者の意思を表明する補助装置製作をきっかけにPC界の松本吉彦と知り合う。「日本マイクロハード(株)」を起こし、PCやLSI設計、CP/MやMS-DODのインプリメントなど大企業の研究開発部門みたいな仕事を請け負う。
 大企業はつまるところ我らに、責任を持って旗振りすることを求めたようだ。おつむレベルはあちらの方が上。学問や知識だけでは動く物ができないということなんだな。サンヨー、京セラ、ソニー、日本電気、日立、そしてLSIを作るためにLSI-Logicなどと関わる。良き仲間に恵まれ最先端の開発とか大企業の仕組みはどういうものかを知ることができた12年であった
 半導体やソフト産業はしょせん英語圏の発祥。データシートやマニュアルはすべて英語。高校・大学と英語なんて使いっこないと思っていたわたしもしかたなく読めるようにはなったけれど複雑な構文は今もって人だより。
1994 MAD  日本国内では新規PC設計時代が終わったので会社を清算、倒産ではない。趣味的な分野を目指そうと「数理設計研究所」なる看板で研究乞食。年収27万円、1ヶ月ではない。マイクロハードの時代に積み立てておいた退職金で2年間寝て暮らした。この2年間で八木アンテナの数値計算に関する本を著述から編集までやってみて出版、自費出版ではなくCQ出版だ。八木・宇多アンテナ YSIM
 ソフトウェア、ハードウェアの基礎設計、電子、電波、雷など自然や電子技術を分野とする著述などなど。興味あることやアイデアはこぼれるほど沸いてくるが物になるのはめったにない。大永ドリーム、クシダ工業から研究費名目で成果を約束せずに御布施をいただけるようになり最低生活費は維持できるようになった。
1996 MAD   群馬県太田市にある(株)ぐんま産業高度化センターに大永ドリームが研究室を開くことになったので、そこの管理人兼研究員を始めた。人のつながりも増え 大永ドリーム、クシダ工業、ぐんま産業高度化センターと共同でGIDなるキットを開発して道楽道を驀進。ぐんま産業高度化センターの当時の社長である添田さんと息が合い補助金などの手配をしていただいて一息。しかしそこそこ実験資金が手に入っても右から左へ胡散霧消していくのにはあきれる。
 一文も残らないとはいえ年に数百万もガラクタを買い込んで遊べるのはいたって幸せだなあと感じる。9月からアルバイト生活していた矢澤君を助手として雇う。
1997 MAD  オヤジ死去。猫が死んで泣き暮らしたことがあったがオヤジが死ぬとさすがにもっと悲しかった。子供やカーちゃんならどんなに悲しいか想像もできない。親類縁者の死去はあったけれど、それはやはり遠いものがあった。しかし、人はいずれ死ぬ。死んでみたらあの世があるかどうかわかるだろうと思っている。
 親父の死を通じて、私にとって死とは時間の停止→永遠への没入と同じではないかと感じる。光の速さを光速というが、そのとき光に意識があるとすると、我々にとって100億年かかっての距離さえも、光さんは発生したとたんに到着する。まあ、そんな類推からだが、あまり確信も持っていないよ。
1998 MAD  防災方面に興味を持ち、山地用3Dスキャナの開発を群馬大学を通じて研究費申請したがボツ。しかし、その後大永ドリームが群馬県の新製品開発に応募して開発に着手。
1999 MAD  土石流警報機の実験的な開発、山地防災用の3Dスキャナ実験など防災方面に首を突っ込みはじめた。防災研究50%、そのほか50%である。
2000 MAD 三宅島噴火のWEB記録から本格的に防災分野全般に足を突っ込み始めた。スペクトラム拡散の防災通信への適用研究を開始。
2002 (株)  企業間契約も増え法人化を迫られていたので
設立日2002年7月12日 「株式会社 数理設計研究所」 とした。
2003 (株)  「(株)数理設計研究所」なる株式会社の代表取締役、友人たちと共同出資と運営をしているが、基本は私の独裁運営。GIDADCをローコストに提供し、アンテナの本などを書いているおかげか人のネットワークが広がっていく。最近は防災関係に力を入れている。
 LSIの製造会社といっしょに仕事することも多くなり、60%はシステム開発と。大方の人が感じる「システム」はソフトウェアなのだが、当方は半導体の内部構造そのものということも多い。
 スペクトラム拡散通信の国際出願(日本、米国、韓国、台湾、EU)
2004 (株) 中国の三峡地区、白山の別当谷、新潟県中越地震、3D観測で東奔西走。
2005 (株) スペクトラム拡散通信の日本国特許取得、秋には遠洋水産研究所の調査線に便乗して方向探知機の運用法を観察
2006 (株) 南レイテ州の大規模地すべりの調査に参加、東大地震研究所の鷹野先生が主唱するIT強震計研究会の設立時に参加。
2007 (株) 「スペクトラム拡散方式の通信装置、及び、その高速同期法」の野外実験に着手。1億分の5W、平地(1.5m高さどうし)で600m、1F屋根に受信アンテナを置けば1kmのデジタル通信に成功。
2008 (株)  5月頃に体調不良を感じ、6月に大腸ガンが判明。7月に開腹手術でデバッグした。10月段階では転移しているかどうかは不明、念のために抗がん剤を服用している。人はいずれ死ぬからと、あまり落ち込んだりはしていない。生きている時間を有意義に使うことに人生の意味があり、死後について思い煩うことは無い。
 スペクトラム拡散の特許は米+EUでも確定。通信実験や装置試作に明け暮れている。
 数理設計を始めて12年たった。矢澤君がいてこその共同事業だと強く感じる。
2009 (株)  なんとか生き延び、10月末には初期からわかっていた肝臓への転移を切除。おそらく、これでいいだろうってことで抗がん剤も終わり、数ヶ月に一度の検査をするだけになった。
 MADは研究所なので、日常的に売れる商品を持っていない。そうするとキャッシュフローは大きな浮き沈みがあってかなり運営が難しくなる。気にやむことが少なからずあるが、解決は借り入れを減らすことにあるのだろうと思う。さて在庫を処分、と思ってもなかなかむずかしいが、なせばなる。他には資本金を増やすということなのかな、さて誰が投資してくれるのだろうか、これも問題だ。手前勝手な推計では、SSライセンスが5〜50億円ぐらいあるんだけどなあ。SSライセンスの国内外への販売、技術の商品化を実行しなくちゃ。
 群馬大学の社会環境、建設工学の松本さんたちといっしょに防災研究をするようになった。
2010 (株)  スマトラ島とメンタワイ諸島の間150kmを3mWで通信する実験に成功。防災通信だ。思い立って「第一級アマチュア無線技士」を受験して合格した。事業として特に意味があるわけではないが、趣味を徹底すると言う意味でやってみた。「アマチュア無線儲かりまっか?」と言われれば、「徹底すれば何でも生きてけるよ」って答える。
2013   RIP  2013年3月9日 永眠
未来    人と同じでは生きている価値が無いしつまらない。模型工作から始まる理科系への興味。大学のころから始まった社会的な現象を理論で理解しようとする志向でしょうか。
趣味    仕事です!、と言うより趣味を仕事にしています。人生短かく、金もうけしている暇は無い。空想と妄想を巡らし、寝て暮らす方が向いているようです。
 アマチュア無線は高校の入学式当日に試験があったような気がします。それいらい中断を挟んでJA1QPYのコールサインを保持しています。14,21,430MHzに出られますがCWは免許だおれ。


contact: yazawa@mail.wind.ne.jp

Copyright(c)   数理設計研究所 All rights reserved.